鶴岡の食文化を紡ぐ人々
No.041 〜例大祭「おふく様」〜
少連寺地区 熊野神社氏子 宮守家の皆さん

神職のお二人とご主人の徳弘さん
春の訪れを告げる例大祭
少連寺の歴史の本によると、「例祭は、過去には5月10日と決められていましたが、昭和40年から4月20日に行われるようになりました。当日は、当屋(神宿)三家と氏子が揃い、三人の神職によって祭儀が厳粛に行われた後、神酒や供物をおろし、直会に入ります。参列者が円座を組んで、次々に大杯を回し一口ずつ飲んでは隣へ回していくという独特の直会です。最後に次期当屋の引き継ぎの行事が行われ、祭りは終わります。」とあります。

神事は当屋の自宅で執り行われる
この祭りは、4月20日に「おふく様」と呼ばれる神様を、当屋の自宅に受け入れ、その年の五穀豊穣、集落の平穏を祈り、毎日水とご飯をあげるところからはじまります。 (実際は、「お鉾(おほこ)様」なのだそうですが、訛りも入り、「おふく様」に変化したようだとおっしゃっていました)

祭りで使用する杯
30軒ほどの集落なので何年かに一度組替えが行われますが、当屋は約30年に一度受けることになります。時代が進むにつれ、やり方を少しずつ変えながら実施しています。祭りの準備は、当屋と親戚が総出で行います。「(前回当屋だったのが)30年も前だからなぁ」と言葉を交わしつつ、宮司さんに話を聞きながら準備をしていました。
台所の女性たちは、食事の準備。ぜんまいの煮物、赤こごみのごまみそ和えなどの山菜料理が並んでいます。

丁寧に作られた山菜料理(孟宗汁、ぜんまいとこんにゃくの煮物、赤こごみのごまみそ添え)
それほど距離が離れているわけではないのですが、その土地土地に合った暮らしがあります。ぜんまいの煮物は、山菜料理ではとても一般的なものですが、味付けや合わせる具材は家庭によってさまざまです。
行事で受け継がれる家の味

一般的には神様にお供えする食物を神饌(しんせん)といいますが、いくつか種類があります。明治の初めのころからは生饌(せいせん)と呼ばれる素材そのものを献供する、「丸物神饌」が一般的になっていますが、それ以前は熟饌(じゅくせん)と呼ばれる調理・加工を行った、日常生活における食文化の影響が伺えるものが献供されていたそうです。

熊野神社の神饌(棒たら、鱒、生うど、大根、人参、白かぶ、研ぎ米、水、酒、昆布)

【参考】八幡神社の神饌
近くの集落でも春にはそれぞれのお社でのお祭りがありますが、鰈やねぎをお供えする場合もあるようです。
田川地区で一番大きい八幡神社では、冬場に保存しておいた山菜を調理したものが並びます。おそらく、こちらでは昔の形式のままの神饌(熟饌)が残っているのではないかと考えられます。

家から熊野神社へ神様を背負い神職と歩く
氏子で杯を交わす酒飲みまつり

本祭りでは、宵祭りと同様の神饌に加え、少連寺産の米と小豆で作った赤飯がお供えされます。また、別名酒飲み祭りとも呼ばれるこの祭りには、大量のお酒が用意されます。

お話ししていただいた徳松さん
一般的には獅子舞や神楽が出ることも多い春の祭りですが、少連寺は酒を飲むことが中心なんですね、と聞くと、お父さんの徳松さんは「少連寺の人がたは芸が達者でねぇがら、酒ばり飲むまつりさなったなだ~」と笑っていました。

赤飯も全員の皿に取り分けられ、いただきます。最初は静粛に儀式を進めていた男衆も、お酒をまわしていくうちにだんだんにぎやかになり、あちこちから笑い声や話し声が聞こえるようになります。当屋が杯で酒を飲むときは皆が注目し、大杯が空になると拍手が沸き起こります。

氏子が取り囲み、真ん中で当屋が酒を飲む

赤飯を取り分けるのも男衆だ
本祭りでの食についてもお聞きしたところ、
「神様さあげた鱒を汁にしてみんなでくたもんだ、おなごは入らんねがら、幕の外からてづない(手伝い)したなや」と、氏子の方からお話しされていました。料理は出すが女人禁制、他所のひとは入れないというしきたりは最近まで残っていたそうです。一昔前までは神様に上げていた鱒は汁物にしていたそうですが、現在は汁物はなく、赤飯と折詰で直会を開いています。
少しさみしさもありますが、生活様式の変化と共に行事のやり方を変えていくのは仕方のない事であり「無理してやるのではなく、その時やりやすいやり方でやるのがいいんじゃないかな」と恵里さんはおっしゃっていました。


祭りの食事の準備をする宮守家の女性たち(恵里さん、愛さん、愛香さん)