鶴岡の食文化を紡ぐ人々

No.059  ~在来作物と研究会~

山形大学農学部教授・山形在来作物研究会会長 江頭宏昌さん

これまで、食文化を紡ぐ人々の取材の中で「在来作物」を取り上げる機会が多くありました。在来作物と呼ばれてはいない以前より、それぞれの場所で野菜たちは名前がついて、その地域地域で大切に受け継がれて来た作物です。 鶴岡で「在来作物」と当たり前に聞かれるようになったのは、じつは2000年代に入ってから。まだ20年もたっていません。

そのきっかけには山形在来作物研究会というグループの立ち上げや、研究者である江頭先生と料理人の奥田政行さんの出会い、農家への現地調査とメディアへの掲載など、江頭先生の周りで起きた取り組みが大きく関係しています。そんなお話を、今回は山形大学農学部の研究室でお聞きしました。

会誌SEED第一号を手にする江頭宏昌先生

山形大学農学部は、鶴岡市若葉町にあります。人文学部や工学部などの他学科は県内のほかの市にあるのですが、農学部だけは鶴岡に拠点を構えています。というのも、前身に山形県立農林専門学校が鶴岡にあったことから、農学部が鶴岡に置かれることになったのです。 それほど大きくない校舎と、市内に農林業施設をいくつか持っており、先生と学生合わせて約600名ほどが在籍しています。
江頭先生の研究室に行くと、学生さんが場所を案内してくれました。全国の作物や農業に関するたくさんの本や資料に囲まれた研究室です。 
色々とお聞きしたかったので、早速話を切り出すと、まずは、という風に先生は手早くやかんをコンロにかけ、豆を挽いて、話をしながらコーヒーを淹れてくれました。

在来作物関係の資料

2000年ころから江頭先生は、当時あまり知られていなかった「在来作物」に注目し調査をし始めました。1976年に発行された、かつて山形大学農学部で教鞭をとっていた青葉高氏の「北国の野菜風土誌」という本があります。これには、当時の土地ごとに大切に守られてきた作物の状況が綴られているのですが、図鑑ではないので索引がついておらず、江頭先生の所有のものは気になる箇所に付箋を付けた付箋だらけのものだったと言います。それをまず、作物ごとに分類分けし、山形県の在来作物の調査のためのした資料としてデータベース化しました。

すでに本の発行から25年が経っていました。データをまとめながら「高度経済成長期、バブル期というような社会の変化の大きい時期を越えてきたわけですから、この本に出てきた作物はほとんど残っていないのではないだろうか、というのが本音でした。それを、確認するために現地を訪ねて回ろうと2002年、2003年ころから取材と聞き取りを始めたんです。その、少し前にアル・ケッチアーノの奥田さんと仲良くなったんです。」それまで江頭先生は奥田さんの店に行くお客さんではあったものの、気軽に話をする仲というほどではありませんでした。
これまで奥田さんと江頭先生は二人三脚で鶴岡の在来作物を引っ張ってきていますが、2人の密度の濃い時間が始まったのは、何気ない話をしたことがきっかけになったそうです。
「奥田さんの東京修業時代に、使っていた野菜がいつもより高かったので業者にどうして高いのか聞いたら、庄内産だからだ、と答えたんだそうです。農家から仕入れた時はそんなに値段は変わらず、むしろ安いくらいかもしれないのに、業者は庄内産が品質がいいからいい値段をつけていたんですよ。奥田さんはその時、地元の人にいい野菜であるということを知ってもらいたいと強く思い、鶴岡に店を出すことにしたんだそうです。「地域の食材にこだわって料理を出したいのなら、これから在来野菜を調査しようと考えているので、一緒に農家を訪問しませんか」と私が提案し、そのあたりから仲良くなりました。2003年の8月からは、雑誌「庄内小僧」への連載が始まり、奥田さんと私の二人で在来作物の農家の取材をして回りました。」

連載の記念すべき第一回は外内島キュウリの上野武さん。その後も1年にわたり見開き2ページで連載が続きました。

「この1年間の連載のおかげで在来作物という言葉が地域に広まったと思います。でも取材先では農家の皆さんが口々に今年でやめる、だれも見向きもしてくれないと言うんですよね。藤沢カブの後藤さんは、マスコミが来ても収穫の一番いい時しか来ない。お前たちもそうなんだろう。と言いました。私たちはそれも悔しくて奥田さんと二人で何度も通い、研究室で弟子入りみたいにしてヤマハライ(焼畑)も手伝わさせてもらったんです。お話しして下さる人は、キラキラした顔でみんな話をしてくださいました。」

在来作物に見えない風のようなものが吹いていた

全国の産地を調査している(桜島大根)

この頃から個人で在来作物を調べたり、保存、発信していくには限界があるし、何より地域の人に現状を知ってもらう必要性があると強く感じ、それには研究会をつくったほうがいい、という思いがわきあがっていました。しかしながら、江頭先生自身は先頭に立つのは得意な方ではなかったので、どうしたものかと周りと話したりしていました。そんな中、奥田さんに「江頭さんがやらなかったら誰がやるんだ」という一言をもらい、さらに、山形大学農学部の作物の研究をしている先生方にも声をかけてみたところ、ぜひ研究会を作ろうという話になりました。在来作物という言葉はまだ浸透してはいないけれど、小さくてもいいから、まず立ち上げて整えて行こう、そんな思いの中、『山形在来作物研究会(在作研)』の形作りが始まりました。当時の鶴岡市も、農協もこの動きに対して前向きだったことや、大学からも進めていくべき事業として認められ補助が出ることが決まり、どんどん後押ししてくれました。

「目に見えない力がどんどん働いたように思います。」と江頭先生は話します。また、『日本農業新聞』や雑誌『チルチンびと』が研究会発足前に事前に告知してくれたこともあり、「どんな活動を行おうとしているのか分からないよちよち歩きの、しかも山形県に特化した在来作物の研究会に」北海道から九州まで、発足前から問い合わせや、こんな研究会を待っていたんだという九州からの励ましのFAXや、入会希望者の問い合わせが来ることになり、事務局をやっていた江頭先生はとても驚いたそうです。

2016年のフォーラムの様子

2003年11月に、山形大学農学部の一番大きい教室で、山形在来作物研究会発足記念シンポジウムが開かれました。200人以上の参加者が集まり、立ち見が出たほど。この日が、会誌『SEED』の創刊日ともなりました。

「当初は手弁当でやろうと動き出したけれど、学長、学部長の応援があり、予算がつきました。その予算でせっかくならコピー印刷ではなく雑誌をつくろうと話が進みましたが、デザインをしたこともましてや雑誌をつくったこともないのにどうしよう、というタイミングでまた出会いがあったんです。たまたま在来野菜の取材に同行していた初対面の方が、デザインも印刷もする会社の方だったんです。会社の方々が誠心誠意、全力で雑誌のデザイン、編集、発刊に協力してくださって本当にありがたかったです。完成して、素敵なデザインの雑誌になって、会員の皆さんに好意的に迎えられました。」

発足当時は特に農業者から、金にならないものを今更どうするんだという声もたくさんありました。在来作物をつくっている⼈は変わった⼈だという目で見られていた方も多かったと思います。でも在来品種は貴重な地域の宝物なので、どうかずっと大切にしてくださいと栽培者に伝えることや、在来品種の栽培者が歴史や文化を継承していることの大切さを多くの人にしってもらうことが研究者としての役割かも知れない、と感じたと江頭先⽣は⼒強く話してくださいました。

山形在来作物研究会のウェブサイト

在作研として、山形大学としてできること

 2004年のSEED第2号では焼畑ロードという言葉が登場します。当時は『焼畑』に対して熱帯林の大量伐採、環境破壊や大気汚染といったマイナスのイメージを持っている人が多く、鶴岡で生業として300年以上も続けられている焼畑農業も重ねられてしまっている部分がありました。そんな逆風が吹いているから、意味や歴史を知ってほしい、そんな時こそ研究者が声をあげて示す役割があるのではと、特集を焼畑にしました。
「現代の世の中はお金が儲かる事には悪く言わない世の中です。経済優先ですからね。それが悪いとは言いませんが、そんな中で儲からないかもしれない、むしろ儲からないものをいかに守っていくか。研究者しか言えないこと、できないことがあると思います。在作研や大学の立ち位置はそういうところにあるのではないかな、と思うことがあります。」

会誌SEED

現在、在来作物は鶴岡だけではなく全国的にも存続が微妙なところに差し掛かっています。原因は高齢化や農業従事者の減少や技術や生活の変化です。若い人が継承している事例もありますが、そう多くはないと言います。

「たとえばダイコンやカブ、ずっと食べられてきた加工法は漬物です。漬物を食べる人は実際に減っています。自宅で作る人も昔は当たり前だったけど今は買うのが一般的です。伝統的な食べ方を伝えていくことも重要だけれど、他の用途も作り出していかないと地域の作物として種は存続していかないですよね。鶴岡は食文化創造都市が作り出していく役割なのかもしれないと思います。時代に応じた利用を創造的に見出していかないといけないのではないでしょうか。」
在来野菜は、F1種の野菜と違って昔からの食べ方が決まっていて、オールマイティな使い方はできません。だけど、在来作物の味わいはほかには代えられないおいしさがあります。たとえば現在生産者が数名で作っている鶴岡の「小真木ダイコン」は、お正月に欠かせないハリハリ漬には欠かせない材料です。「山形青菜」は種取りをする人が減少していて、かつてとは違う場所で種取りをしながら細く続けています。高齢化との戦い、若い生産者にどうつないでいくかも作物ごとに考えて行かなくてはいけません。在作研ができることもありますが、社会学、経済学などの様々な視点から社会全体で考え、生産者にすべて投げるのではないやり方を考える機会は必要だ、と話しています。

焼畑風景

個人で種を守ることには限界がある部分もあるので、コミュニティで守る在来作物も考えていくことも方法の一つです。「宝谷かぶ」は、一時期生産者が一人になりました。その時には、宝谷カブ主の会という会費制のサポートメンバーを集め、忙しい時期に作業ボランティアをしたり、購入の応援をしたりする会で支えていました。また、「波渡なす」は地域の小堅保育園で種取りや栽培も子どもたちと地域のおじいさんおばあさんと交流しながら育てています。「民田なす」「だだちゃ豆」「外内島キュウリ」はそれぞれ地域の小学校で農家体験交流をしているそうです。

幼少期に「この地域にこんな個性的な作物があるんだ」ということを自然に経験していることが重要で、たとえば宮崎県の椎葉村の焼畑は、20年以上子どもと農家の交流があって、20年前に食べたそばの味が忘れられないと、大人になってから地域を支える人材になっている例もあります。舌で覚える、継承する力を地域で育てる方法を考えていけたらと江頭先生は話してくださいました。

藤沢カブ

平成29年鶴岡在来作物調査報告書を見ると、山形県の中でも庄内地方、その中でも鶴岡市に確認されている在来作物が多いことがわかります。

江頭先生に、理由を聞いてみたところ、在作研が鶴岡にあるということだけが理由ではないようでした。一つは、かつて赤川流域は氾濫が多かったために、砂利や湿地など米に向いていなかったことから野菜や果樹に特化した地域がところどころにうまれ、そこが産地になり、地名の付く作物が代々受け継がれることになった、というものでした。そしてもう一つは、地域一丸となった農民教育に力を入れ、勉強熱心な土地柄である、ということだそうです。他地域からの品種も積極的に試したり、専門の講師がいたため、技術向上も怠らないといった、よその農民教育とは一線を介する哲学の深い農民教育をしていたと言います。

在来作物は、原産地は他地域のものでも、続けているのが2代や3代でも、きちんとその作物の形質を理解し、種取りから収穫の技術が受け継がれているものを呼びます。お話を聞いて土地、風土、歴史、人の暮らしと気質を表す鏡なのだと感じました。経済にはなかなか乗りにくい作物ではあるけれども、農家、販売者、料理人、研究者、教育機関、行政が協力しながら光を当てていけたら、鶴岡が大切にしているものを忘れずにいられるような気がしました。
(文 稲田瑛乃)

※(参考)山形在来作物研究会ホームページ http://zaisakuken.jp/

在来作物

ある地域で栽培者自身が自家採種などで種苗の管理を行いながら栽培し、生活に利用してきた作物のこと。
野菜だけではなく、穀物、果樹、花、工芸作物も含まれる。その定義はゆるく、地域を広く探索してリストアップ
し、より多くの人に貴重な資源を認知してもらうときに使う定義である。
(平成29年鶴岡在来作物調査報告書より)

波渡なすと子どもたち

 
 

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